不屈の左腕 栗田雄介投手(26歳)

15時にベースボール・ジムに入り、
岡本晃投手、栗田雄介投手、ゴルフ研修生の奥山君、
児玉コーチの紹介で新たに淡路島から来た
高2のヒジを痛めた球児、ほかに3人の中高の球児たちの
指導やコンディショニングを20時過ぎまで行なう。
昨年、戦力外通告をうけた栗田投手は、
千葉県の実家に帰って電気工事のアルバイトを
していたという。そして、今年4月に新設される
野球選手科に特待生として入学するため、
約2ヶ月ぶりに関西に戻って来て西宮寮に入寮した。
3月からはいよいよ野球選手科のスプリングキャンプが始まる。
不屈の左腕のプロ復活へ向けた再スタートだ。
栗田投手は千葉工業大学から岩手県にある宮城建設野球部に所属していたが、
2年目の03年秋に廃部となり、近鉄にテスト入団した。
近鉄で1軍の試合に登板できたのは最終戦の1回だけ。
入団1年で近鉄はなくなり、分配ドラフトで合併した
神戸に本拠地を置く球団に入る。
しかし、肩を痛めて昨年秋、戦力外通告を受けた。
プロとしての通算成績は1試合、0勝0敗0セーブ、防御率0.00で終わった。
しかし、栗田は野球を諦めきれず、仲間と一緒に合同トライアウトを受ける決意をする。
医師からは肩の「鍵板炎」と診断され、肩が挙がらない状態になっていた。
炎症もあって「シャドウでも激痛が走った」という。
1回目のトライアウトでは痛み止めを飲んで何とか投げたが、
翌日から症状がさらに悪化し、約2週間、
シャドウすらできない状態に陥った。
栗田は、「野球はもう無理かもしれない」と思いつつも、
「まだ投げたい」という気持ちは強かった。
2回目のトライアウトの前日、元同僚の先輩に紹介されて、
私を訪ねて来た。
私は、そんな状態で2週間もトレーニングしていないのに、
明日投げるなんて、無謀だと思ったが、
最後のチャンスに懸けている栗田選手を前に、
私もどこまでできるか分からないが、最善を尽くしてみるしかないと思った。
そこで、肩の機能鑑別をし、投げる動作に必要な挙上動作の確保のための
体幹と肩甲胸郭の調整を行った。
調整が進むにつれて、少しずつ肩の状態も良くなり、栗田の表情も明るくなっていった。
いつものことだが、機能状態の悪化は使い方にあることが多く、
彼も例外ではなかった。
オーバースローからサイドスローに変えた去年、
フォーム改造が定着しないまま、かなり投げ込んだことが
肩をいためた原因だと考えられた。
そこで、機能状態を改善するだけではなく、
投球フォームを修正する必要があると考えた。
私は、明日投げるという彼にサイドスローは無理なため、
オーバースローに戻す決断をした。
そして、そのことを彼に説明し、投げるために必要な
ファンクショナルテーピングを施した。
さらにサポート力を高めるために、
私が機能設計したワコールのCW-X「プロトップ」を着用させ、
オーバースローによるシャドウピッチングから指導した。
何度かイメージをつくった後に、私とのキャッチボールを
イスに座った状態から始め、立ってキャッチボールをするところまで
調整を進めることができた。来院してから4時間余りで、
屋外でキャッチボールができるまでに至った。
通常は、彼のような機能損傷を負った選手に対してのスクリーニングは、
3日以上かける。実践投球に至るまでは十分な時間をかけ、
段階的に補強トレーニングをしながら管理していく。
栗田の場合はその時間もなく、明日は18・4メートルの距離を
全力で投げなければいけない厳しい状況に置かれていた。
翌日の合同トライアウトでは球速135キロのボールを投げた。
昨日まで投げれなかった栗田が一日で投げれるようになったのを観て、
元同僚たちもビックリした。
しかし、コントロールまでは1日ではよくならず、
球団からのオファーはなかった。
忘れられない唯一の1軍登板。もう一度、あの舞台に立つため、
栗田は、科学的なトレーニング方法と私の3クロス投法を習得しながら、
今季は学院のクラブチームのピッチャーとして再び投げる決意を固めた。
不完燃焼していた栗田投手の目は、私と出会い、
自分の可能性にチャレンジを続ける、希望に燃える目に変わった。
投稿者 kanrisya|2006年02月24日 12:31 |トラックバック (0)| 日記投稿数 406|
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