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11年前の阪神大震災

今日は阪神淡路大震災があってから11年目の日。
11年前、私は前日の1月16日、小学6年の長女と5年の長男を家に残して、
主人と二人で東京に出張していました。
恩師の故、市川宣恭 大阪体育大学教授とともに、「腰痛体操」や
イスに座ったまま中高年の方でもできる、私が考案した
「チェアエクササイズ」の普及のためのセミナーを主催していたからです。

震災を知ったのは17日の朝6時頃、宿泊先のホテルのテレビです。
淡路島と神戸が震度7という。詳細は分かりません。
「どうしよう!」子どもたちの安否が気になり、心配で全身が震え、涙が溢れだす。
すぐに主人が家に電話をかけるがつながらない。
小野市の私の実家に電話をする。実家はつながった。
地震の直後に兄が私の家に電話してくれた時はつながって、
「みんな大丈夫か?」って聞いたら、
子どもが出て「大丈夫だよ」と言ったので安心したが、
まさか、私たち二人が出張しているとは知らなかったという。
今からすぐに迎えに行ってくれるというので、とりあえず一安心だ。

とにかく神戸に帰ることにする。新幹線はストップしていたが、
運よく動き始めた名古屋までの始発の新幹線に乗れた。
名古屋で新聞の号外を手にして、想像以上の被害の大きさに愕然となる。
阪神高速が倒壊し、長田区の辺りが火災で黒煙が上がっている写真が載っていた。
家や学院は潰れていないだろうかとますます心配になる。

名古屋から近鉄電車で大阪に入る。
大阪から神戸に向かう電車はみな不通になっていたので、
タクシーで西宮校に向かう。時間は午後4時を過ぎていた。
西宮校は建物も無事で、被害は少ないようだ。

神戸に向かう。芦屋市辺りから家やマンションの倒壊が目立ちはじめる。
2号線は渋滞して車が進まないので、抜け道を行くが東灘区に入ると
道路も倒れた家の瓦礫や電柱で塞がれ、進めなくなった。徒歩で岡本校に向かう。
家がペチャンコに潰れたり、大きなビルが傾いて、ひどい状況だ。
救急車や消防車だろうか、サイレンがあちこちから聞こえる。
荷物を持ったり、リュックを背負った人たちがたくさん歩いている。
戦争は知らないけど、まるで空襲の後のようだ。
JRより南の地域が特に被害がひどいようだ。

神戸市東灘区にあった岡本校はJRより北にあったので、建物は大丈夫なようだが、
周りの状況からみて、当分、再開は困難。閉じることを覚悟する。
東灘区の自宅は一部損壊しただけだったが、家の中は家具が倒れて
ガラスも割れ、かなり散乱していた。
私たちの寝室の大型テレビも跳んでいたので、
出張していなければどちらかが大怪我をしていたに違いない。
子どもたちが怪我もなく無事だったことに感謝!
自家用車も無事だったので、電気のストップした暗闇の街を通り、六甲山を越えて実家に向かう。
水道や電気、ガスなどのライフラインが復旧するまで、実家の世話になる。

翌日、スタッフたちの安否が心配になり、お水とおにぎりを持って
家や避難所、遺体安置所などを尋ねた。幸い皆、無事だった。
しかし、震災による死者は6千人を超え、全半壊した家は24万9千棟もあったという。
やがて、「WE LOVE KOBE」を合言葉に復興へ向けた取り組みが始まった。

あの日から11年。
「がんばろうKOBE」のワッペンをユニフォームに付け、
プレーしていたプロ野球選手たちのことをふと思い出した。
今、私はその球団の若手の現役選手たちと、二人の元選手を
パーソナルトレーナーとして指導している。

彼らが一軍で活躍したり、復活する日を夢見て。

投稿者 kanrisya|2006年01月17日 22:32 |トラックバック (0)| 日記投稿数 721|

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